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こどもの家、名瀬天使園

 こどもの家は1954 年(昭和29 年)11 月にゼローム神父が中心になって設立し、先ず松原家にいた3人の子供たちを預かった(表5)40)。診療所に隣接した建物で、松原の娘やボランティアの女子青年らが協力し合って保育をしていた。ゼローム神父の努力が実って、幼きイエズス修道会が事業を引き継ぎ、乳児院「天使園」として1955 年9月に保育を始めた。1956 年3月には20 坪の平屋木造建ての乳児棟も新築された。1959 年5月には和光園の子どものみでなく、一般の子どもも入所できる「名瀬天使園」として定員20 名で児童福祉法認可の乳児院として再編された44)。1955 年から1979 年までに44 人の子供たちが名瀬天使園から巣立っていった24)。なお、実際の子供の数は、資料がないために不明であり、44 人よりも多いものと考えられる(表7)。それらの子供たちは、2歳の誕生日から3歳の誕生日の間の適当な時期に名瀬天使園からゼローム神父が建てた「白百合の寮」に移った。子どもが親と面会するとき、和光園に流れる川を挟んでの面会であった37)。
 名瀬天使園、白百合の寮に在籍した子供からハンセン病を発病した人は一人もおらず、その上、健康でよい素質に恵まれ、社会に溶け込んで幸せに働いていることが20 数年後明らかになったとのことである24)。名瀬天使園は1992 年(平成4年)、その使命を終えて閉園された24)。
 らい予防法が廃止になった時(1996 年)に、患者から生まれ、成人した子供たちが教会に集い、ゼローム神父たちに感謝をささげた39)。

 

白百合の寮

 和光園で誕生した赤ん坊は3歳まではこどもの家、名瀬天使園で対応が可能になったが、その後、 18 歳までの就学児の対応が必要になった。
 1959 年、ゼローム神父は、名瀬市小俣に児童養護施設「白百合の寮」を設立した(表6)。この施設はこどもの家・天使園の3歳になった子供のほか、奄美の恵まれない児童を対象とした。子ども達の世話は1958 年に奄美に来ていた宮崎カリタス修道女会に委ねた35, 46)。シスターたちは、子ども達の母親、あるいは姉として、家庭的雰囲気の中で子ども達の養育に当たった。1982 年には現在の奄美市浦上に移転した。子どもたちは年数回、学芸会を和光園で行い、ステージと観客席に分かれ親は子供たちを見て子供たちの成長を見守った45)。患者がバイクや自動車などを持つようになった1960 年後半頃からは、親が白百合の寮に面会に行くことが多くなった。白百合の寮の資料によると、天使園から白百合の寮に入所した子供は合計37 人であった(表7)。天使園を経ずに直接、白百合の寮に入所(天使園以外の施設などで保育され、その後に寮に入所した子供など)は含まれていない。

 

世界は奄美の子供たちに熱い視線を注ぐ

 1956 年(昭和31 年)4月16 〜18 日にカトリック・マルタ騎士協会主催「ハンセン病患者の保護および社会復帰に関する国際会議(通称 ローマ会議)」が51 ヵ国の代表によってローマで開かれた3, 29, 47)。日本から浜野規矩雄藤楓協会理事長、林 芳信多磨全生園長、野島泰治大島青松園長の3人が出席した。この会議ではいわゆる「ローマ宣言」が決議された。その内容には、児童は、正しい手段により、感染から保護されるべきこと、が記載されていた。
 日本が採用しているハンセン病予防のための優生保護法や断種、妊娠中絶のことを発表した際、会場の反応はとても冷ややかで、満場水を打ったようになってしまったという。しかし、最後に「ひとつの試みとも言えることを実施している。ハンセン病は接触伝染であることを前提に出産時に新生児を母胎より直ちに引き離して、他の健康な人の手もとで育てるよう修道女会に預けている」と発表を締めくくったところ、満場百雷の拍手が起って初めて温かさが戻って来ました、と回想している24)。カトリックの集まる会議であったこともあり、ハンセン病が優生保護法の対象疾患に入っていること、中絶などが行われていることに怒りがあったのかもしれないが、カトリックの関与のもとで、和光園では生まれた子供を施設で養育していることに参加者は安堵したのであろう。この話は厚生技官から松原に「松原さんあなたが勝ちましたよ、20 年後が見ものですよ!世界があなた方を見ていますよ。」と伝えられ24)、世界の常識は厚生省内でもある程度認識があったと考えられる。


 

天使園・白百合の寮で成長した子供たちが社会で生きる

 和光園で出生した子供、天使園で育った子供、白百合の寮で育った子供、園内保育所で育った子供のそれぞれの人数は資料が残っておらず不明であるが、文献からある程度の人数を推し量ることができる(表1、7)

 ハンセン病の親から生まれ、現在、社会人として活躍しているY 氏はゼローム神父の追悼文の中で、ゼローム神父の記憶を述べている39)。「堕胎の罪に関して、聖時間中しばしば意向に出して祈られていた。最も味方の立場の母親が堕胎により無力な胎児の敵になっている。こんな悲しいことはない。ゼローム神父様はかって奄美和光園(国立ハンセン病療養所)で院内出産をめぐって、堕胎を絶対的に認めないパトリック神父様と激しく対立したと聞いている。このような過去の汚点を償うかのように、よく堕胎の罪に関して熱心に祈られていたように思う。」「ライ予防法が廃止された年、奄美和光園で糸永司教様司式で和光園の講堂で感謝の御ミサが厳かに捧げられた。ミサの後、茶話会がもたれゼローム神父を数人の園生のお父さん達が囲んだ。彼らが『全国のハンセン病療養所の中で唯一ここだけ子供が授かり、孫までいる。神父さん有難う』と言ってくれて、そのことを神父様は口にされ、大変嬉しそうにしておられた。」39)。Y 氏は最後に、「生前の父親を知らない私にとっても慈父のような存在でもあった。神に感謝。神父様心から有難うございます。」39)、とゼローム神父に感謝を述べている。


 

総 括

 ハンセン病療養所である和光園で新しい命が生まれ、育ち、学び、社会で活躍していることを、文献などで明らかにした。年代は、文献から可能な限り正確に記載し、当事者などからも話を聞き、地域、日本、世界と対比した。時代的背景を追いながら、和光園の子供たちを考察したい。
 ハンセン病の政策は治療薬の有無によって大きく変化する。日本では感染性を有する多菌型のハンセン病が多いため、治療薬のない時代には、同居する子供のハンセン病発病率は高く、世界的にも10%から40%程度の発病率の記載がある1, 3)。幸い、和光園では治療薬のプロミンが使用されるようになってから、療養所としての機能が動き出した。一方、1953 年12 月の日本復帰までは米国のハンセン病政策が色濃かった。その中で宗教、カトリック神父の影響も大きかった。
 カトリックでは、妊娠・出産は当然で、堕胎は罪である。パトリック神父と松原若安は和光園において宣教に努め、多数の信者を得た。また、パトリック神父は和光教会の司祭に、松原は和光園の事務長になり、彼らの妊娠・出産に対する考えは入所者の間に広まっていく。さらに、星塚敬愛園の大西基四夫園長もカトリックで、パトリック神父や松原の考えを陰に陽に支援した。彼ら3人の力が和光園での出産を可能にしたのである。優生保護法の対象疾患にハンセン病が追加された(1948 年)が、当時の奄美は米国の占領下で、パトリック神父の発言力は強く、法律の影響は大きくはなかったと考えられる。その中で、本土復帰の前の1953 年から、復帰後の1954 年は過渡期で、入所者、子供の親と和光園、そしてカトリックによって、「夫婦舎の内則」が作られ、妊娠・出産・保育が実質可能になった。出産後は子供たちの保育を看護婦、教会(松原家)が対応し、園内保育所も利用しながら、「こどもの家」のオープンを待った。厚生省との対応は事務長である松原が行い、大西は支援した。厚生省としては、スムーズに機能しているシステムを、非難しながらも黙認するしかなかった。生まれた子供を出生直後からどこで、誰が保育・養護をするかが課題であった。パトリック神父は和光園をカトリックの施設にするか、園内に子供の施設を作ることを考えていたようである22)。これはパトリック神父と松原などの会話で話題にのぼったことを、松原の次男が聞いたのであるが、可能性の話であったかもしれない。和光園の外に乳児園と養護施設を建設するというゼローム神父や大西らの考えは、カトリックの支援を必要とした。そのために、パトリック神父、ゼローム神父、松原、大西らの役割は大であった。先ず、こどもの家/天使園を作ることで、和光園、厚生省対策が可能になった。その後、1959 年には白百合の寮を設立した。カトリックの支援のもと、妊娠から独り立ちまでのシステムが完成した。4人のカトリック信者を中心に多くの人々の力の結集で成功した。
 パトリック神父はハンセン病患者に生涯を捧げたいと念じ、和光園の患者と接していた31)。彼の情熱こそが松原や大西。ゼローム神父などの行動に力を与え、国の圧力にも抗することができたのであろう。
 大西が和光園の件に大きな関与を持ったのはなぜであろうか。カトリックであるからであろうか。それならば、敬愛園でも同様のことを行うなり、その動きがあってもよい。しかし、その動きは見られない。敬愛園は戦前から厚生省の管轄で、癩予防法、優生保護法、らい予防法の元で、大西園長の独断は許されない状況であったと考えられる。一方、彼が診療援助もしていた和光園はカトリックが強く、米国占領下で、パトリック神父、松原、ゼローム神父がいることで、カトリックに基盤を置いた大西の考えを実践できたと考えられる。システムを完成させ、その後は、厚生省に対して、現状認知、さらに大西本人が和光園の園長になり、厚生省からの干渉を排したと考えられる。子どもたちへの愛情が、大物園長を、降格人事ともいえる小さなハンセン病療養所の園長に自発的に就かせることになったのではないであろうか。
 ハンセン病は、感染・発症力は弱いが、小児期に患者と接触することが感染・発病の危険性を増加させる。そのため、出生直後に患者から離すことによって感染・発病の可能性はほとんどなくなる。らい予防法、優生保護法、呼吸器感染、接触感染。感染・発症していない子供は療養所内での生活は困難、医療施設で本来は出生はありえない。これらの環境において、理想的な対応、現実的な対応はどのようなものであったのであろうか。これら多くの因子を考え合わすと妊娠・出産は療養所内では不可能であったと考えられる。  
 和光園と同じようにアメリカによる沖縄統治下におかれた国立療養所宮古南静園では、1950 年(昭和25 年)から1955 年にかけて子供が62 人生まれ、そのうち1991 年(平成3年)には56 人が生存していた48)。しかし、育児に関して当時の宮古群島知事と交渉したが、入所者の希望のシステムは叶えられず49)、母親は園外に出て育児したり、親戚に保育を頼んだりした50)。
 しかし、和光園では自治会、施設、カトリックを合わせた形で、「夫婦舎の内則」を作り、そして出産後の保育・養護のシステムができあがった。子どもは小さいときは年に数回親に会いに行く、見に行く程度で、親は遠くから子供の成長を願うばかりであった。子供たちは成人になり、幸せな生活をし、療養所に時たま顔を見せるようである。また、親が社会復帰し、子供と一緒に幸福な生活をした例もかなりあるが、資料はなく、彼らに問い合わせすることは困難であった。
 和光園では園内での出生児は表7から70 人程度と考えられる。こどもの家(名瀬天使園)は50 人程度、白百合の寮は40 人程度と考えられる。一方、園内保育所には60 人程度が在籍したと考えられる。しかし、詳しい記録は残っていない。子どもたちの過去を明らかにすることを避けるためである。その中でカミングアウトした人が数人いる。彼らも周囲が騒ぐことに戸惑いを感じている。市民のひとりとして普通の生活を望んでいる。
 和光園では出生直後に親子分離保育にしたが当時の医学的状況からは正しい選択と考えられる。白百合の寮での対応も、年2回程度和光園に出向いての面会であったが、後には親が白百合の寮に来ることで、面会規制も緩やかになり、現実に即したものになっていった。
 和光園における子どもたちの巣立つ過程を見ると、法律や時代の流れを受け入れる前に、人間の尊厳、人間として正直に生きる大切さを明示している。生まれる子どもが将来不幸になるかもしれないという理由で中絶やワゼクトミーさせることは間違いである。不幸にしないための最大限の環境作りをすることで、子供の幸せを作ってあげることが大切であることを示している。手放しで妊娠・出産を進めるのではなく、生まれた場合に、その子供がハンセン病にならない、安心した保育が保証され、愛情こもった養育がなされ、社会に巣立つことを保証できるシステムを作ることの重要性を強く示している。このシステムを和光園では完備させた。このシステム作りが一朝一夕でできたのではなく、多くの人々の情熱と努力に支えられ、それに応えて、多くの親と子供たちが沢山の愛情のもとに、普通の親子と同じように強い絆で結ばれたことが、現在の奄美での平和な日常につながっている。
 他のハンセン病療養所は、法律のもとに運営され、ワゼクトミーの歴史も長く、宗教の大きな力が無いなど、和光園とは大きな違いがある。
 和光園で生まれた子供たちとその親の幸せを祝福したい。


 

謝 辞

 本論文を作成にあったて、奄美大島の方々に多くの貴重な助言をいただきました。深謝いたします。
 本論文は、平成21 年度新型インフルエンザ等新興・再興感染症研究事業「ハンセン病の再発・再燃、難治症例に対する予防・診断・治療とハンセン病の啓発に関する研究」の分担研究「ハンセン病診療のネットワーク構築」の補助金を受けた。


 

文 献

1)石井則久:皮膚抗酸菌症テキストブック.pp1-130,金原出版,東京,2008.
2)荒井英子:ハンセン病とキリスト教.pp1-217,岩波書店,東京,1996.
3)犀川一夫:ハンセン病政策の変遷.pp1-288,沖縄県ハンセン病予防協会,那覇,1999.
4)光田健輔:光田健輔と日本のらい予防事業−らい予防法五十周年記念−.藤楓協会(東京),pp1-630,1958.
5)奄美宣教100 周年記念誌編集部:カトリック奄美100 年(奄美宣教100 周年実行委員会)pp1-266,奄美宣教100 周年実行委員会,名瀬,1992.
6)奄美和光園:昭和27 年年報(奄美和光園編集)pp1-68,奄美和光園、名瀬,1953.
7)奄美和光園:創立40 周年記念誌(奄美和光園編集)pp1-162,奄美和光園、名瀬,1984.
8)国立療養所奄美和光園:「光仰ぐ日あるべし・創立50 周年記念誌」,1993.
9)滝沢英夫:奄美の本土分離と患者の送還.和光,41: 6-7,2000.10)藤野 豊:ハンセン病と戦後民主主義―なぜ隔離は強化されたのか.pp1-217,岩波書店,東京,2006.
11)大西基四夫:まなざしその二.pp1-264,みずき書房,大分,1991.
12)大西基四夫:まなざし,pp1-222,みずき書房,大分,1986.
13)大平 馨:官舎哺育の頃.和光,2月:2-7,1997.
14)大平 馨:官舎哺育の頃- 補遺.和光,9 月:7,1997.
15) あまみ保育所: 職場紹介. 和光,26: 6,1996.
16)森 修一、石井則久:ハンセン病の疫学.総説現代ハンセン病医学(大谷藤郎監修),pp362-384, 東海大学出版会, 神奈川,2007.
17)テッド・グーゲリック、ミルトン・ブルームバウム:隔離される病pp1-181,ステラコーポレーション,東京,2000.
18)厚生省優生結婚相談所:結婚と癩病(昭和16年).性と生殖の人権問題資料集成 第21巻(編集復刻版),pp8-9,不二出版,東京,2002.
19)スタンレー・スタイン(勝山京子監訳):アメリカのハンセン病カーヴィル発「もはや一人ではない」,pp1-469,明石書店,東京,2007.
20)奄美和光園:行幸啓記念誌(創立30 周年記念誌)(奄美和光園編集)pp1-91,奄美和光園、名瀬,1974.
21)ハンセン病問題に関する検証会議:ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書 別冊 胎児等標本調査報告,日弁連法務研究財団、東京、2005.
22)大平 馨:官舎哺育の頃−その二.和光,5月:3-7,1997.
23)大平 馨:官舎哺育の頃−その三.和光,8月:5-6,1997.
24)ショファイユの幼きイエズス修道会日本管区:いのちの水に流れるままに(ショファイユの幼きイエズス修道会日本管区編集)pp1-189,ショファイユの幼きイエズス修道会日本管区本部,宝塚,2007.
25)田尻 敢:癩と妊娠.医事公論1440:674,1940.
26)Cochrane RG: A practical textbook of leprosy London Oxford University Press 1947.
27)井上 謙:らい予防方策の国際的変遷(1-9).愛生2号−10 号,1957. 
28)犀川一夫:らいの疫学.日らい会誌 58:,1989.
29)内田博文:ハンセン病と日本国憲法.総説現代ハンセン病医学(大谷藤郎監修),pp412-424,東海大学出版会,神奈川,2007.
30)佐藤 元、Frantz JE:米国におけるハンセン病政策の変遷.日ハンセン病会誌 74:23-41,2005.
31)奄美界編集部:神の人=フィン・パトリック(1).奄美界: 2(1号),10-13,1962.
32)奄美界編集部:神の人=フィン・パトリック(2).奄美界: 2(11 号),11-13,1962.
33)奄美界編集部:神の人=フィン・パトリック(3).奄美界:2(21 号), 12-14,1962.
34)森本季子:私の奄美紀行(4).聖母の騎士(聖母の騎士社発行) 5月号:18-23,1990.
35)森本季子:私の奄美紀行(5).聖母の騎士(聖母の騎士社発行) 6月号:12-16,1990.
36)奄美和光園:奄美和光園の歩み(創立20 周年記念誌、奄美和光園編集)pp1-64,奄美和光園、名瀬,1965.
37)杉山博昭:奄美大島におけるハンセン病問題とカトリック−松原若安を中心に−.純心現代福祉研究12:17-31,2008.38)井原憲一:松原若安氏が死去.和光,1:5,1990.
39)ゼローム神父記念誌刊行実行委員会編集:ゼローム神父記念誌(ゼローム神父記念誌編集委員会編集)pp1-231,ゼローム神父記念誌刊行実行委員会,名瀬,2006.
40)滝沢英夫:名瀬天使園が閉鎖される.和光(奄美和光園発行) 第8号:1-3,1992.
41)平 義治:名瀬天使園創設の頃.和光,9:4,1992.
42)和光編集部:雑.和光,1:1-79,1954.
43)市川恵子:療友への手紙.和光,秋季号:8-12,1957.
44)和光編集部:ふるさと便り.和光,夏季号:20-21,1959.
45)細川護熙:ムレの血(島の現実7),朝日新聞1月13 日鹿児島版,1965.
46)森本季子:私の奄美紀行(10). 聖母の騎士(聖母の騎士社発行) 11 月号:12-17,1990.
47)林 芳信:ローマ国際癩会議に出席して.多磨 37(12 号、臨時号):2-12,1956.
48)宮古南静園:光芒70 年 国立療養所宮古南静園の歩み.2001(リーフレット).
49)松村憲一:生きるために,解放教育:12 月臨時号,119,1983.
50)嘉数シゲ:学級迫害.創立70 周年記念誌,宮古南静園および同自治会,宮古,2001.

 


 

Children born to Hansen's disease patients in Amami-Oshima, Kagoshima, Japan


 

Kazutaka MORIYAMA1), Ichiro KIKUCHI2), Norihisa ISHII * 3)


1)Expatient of Hansen's disease, Amami, Kagoshima, Japan
2)Ai Raifu Uchinomaki, Aso-shi, Kumamoto, Japan
3)Leprosy Research Center, National Institute of Infectious Diseases, Higashimurayama, Tokyo, Japan


[Received: 15 April, 2009 / Accepted: 3 June, 2009]


Key words : Amami-Oshima island, catholicism, child birth, childcare, leprosarium


  In the Japanese leprosaria, it was very difficult or almost impossible for leprosy patients to give birth to their children. There were various reasons for this situation. Leprosy in the women mostly worsened in pregnancy and some of the children developed leprosy. Because of the chronic nature of the disease, marriage was encouraged in Japanese leprosaria, so that vasectomy was usually enforced in men who were wed, while artificial abortion was enforced in pregnant women. The only one exception was the situation of the Amami Wako-en Leprosarium.
  The Wako-en Leprosarium was started in 1943, and between 1946 and 1953, it was under American rule. Later it was transferred to Japanese rule. Religions such as Buddhism, Christianity and other religions greatly helped with leprosy patients , and in the Wakoen, it was Catholicism which prevailed.
  Catholic believer Joan Matsubara (later the secretary of Wako-en), Father Patrick Finn, Kaoru Ohira (director) outlined how children born to Hansen's disease patients would be grown up and made the internal rules of the couples' dormitory, while this was impossible in other leprosaria. Between 1953 and 1954, children were brought up by Matsubara's family or nurses. And since November 1954, children were brought up at nurseries (firstly named "Children's House" and later at "Naze Engel House" and children between 2 and 3 years went to "White Lily House". The children could meet their parents at times and now they are full-fledged grown-up citizens.

 

 


*Corresponding author :
Leprosy Research Center, National Institute of Infectious Diseases,
4-2-1 Aobacho, Higashimurayama, Tokyo 189-0002, Japan
TEL : +81-42-391-8211 FAX : +81-42-391-8210
E-mail : e-mail:norishii@nih.go.jp

 

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