「日本ハンセン病学会雑誌」第78巻3号(2009年9月発行)所収: 日本ハンセン病学会の許可を得て掲載しています。

(1)  (2) (3)                                           →次ページ

 

ハンセン病患者から生まれた子供たち

−奄美大島における妊娠・出産・保育・養育のシステムの軌跡―


 

森山一隆1)、菊池一郎2)、石井則久*3)


1)奄美和光園退所者
2)愛・ライフ内牧
3)国立感染症研究所ハンセン病研究センター

キーワード:奄美大島、カトリック、出産、ハンセン病療養所、保育

 

 ハンセン病療養所において、妊娠・出産が可能であった国立療養所奄美和光園について、時代背景などを追いながら考察した。
 和光園の創設は1943年と新しく、1946 年から1953 年までの米軍占領を経て、日本のハンセン病行政体制に組み込まれた。
 1949年頃より、松原(のちの和光園事務長)の和光園でのカトリックの宣教、1951年からのパトリック神父の宣教は入所者の妊娠・出産の考えを変えた。また、松原、パトリック神父、ゼローム神父、星塚敬愛園の大西園長などの指導のもと、療養所自治会、子供の親、大平園長などによって出産後の子供の養育に道筋が作られ、「夫婦舎の内則」としてまとめられた。実際面では、1953年から1954 年まで新生児を看護婦ないし松原の家族が保育し、1954 年11 月からは保育所(「こどもの家」、後に「名瀬天使園」に名称変更)での保育が始まった。さらに2〜3歳からは「白百合の寮」で養育が行われた。両親との面会は限られていたが、成長し、現在では立派な社会人となって社会で活躍している。
 らい予防法のもとで療養所入所者の妊娠・出産は困難であったが、カトリックを中心とした妊娠・出産・保育・養育の制度を確立することで、和光園においてはハンセン病患者が子供をもつことが可能であった。

* Corresponding author:
国立感染症研究所ハンセン病研究センター
〒189-0002 東京都東村山市青葉町4-2-1
TEL:042-391-8211 FAX:042-391-8210
E-mail:
norishii@nih.go.jp

 

はじめに

 ハンセン病は主に皮膚と末梢神経が障害される疾患であるが1)、多菌型患者で治療が遅れると精巣萎縮を認めることがある。また、妊娠・分娩時には病状の悪化や、らい反応の出現などの注意が必要とされている。しかし、通常はハンセン病患者において妊娠・出産は可能である。生理学的にはそれは可能であっても、ハンセン病療養所やハンセン病関係の施設においては入所者を男女に分離したり、結婚を禁じるなどの歴史があり、施設内での出産は稀であった2, 3)。また、日本においては、結婚は認められていたが、人工中絶や、1915年からは断種(ワゼクトミー)なども行われており、ハンセン病療養所入所者が子供を持つことは極めて困難な状況であった4)。
 一方、日本において、ハンセン病患者が療養所内で妊娠し出産することが可能であった施設が存在したことはあまり知られていない。今回、ハンセン病患者が施設内で妊娠・出産し、子供を持つことができた施設として、国立療養所奄美和光園(以下和光園とする)を取り上げ、歴史的事実をもとに、妊娠・出産が可能であった背景を明らかにし、ハンセン病の医療、人権、宗教などについて考察を行う。

 

 奄美大島とカトリック(和光園開設まで)

 一般的に妊娠・出産、さらに保育・養育には宗教(ここではカトリック)の果たす役割がかなり重要であるので、1943年(昭和18年)の和光園が開設されるまでの、奄美大島(以下奄美とする)におけるカトリックについてまず述べておきたい5)。
 奄美へのカトリックの宣教は1891年(明治24年)に開始された。その後、カトリックは奄美に根を下ろしていった。しかし、奄美が軍事上南方の要衝で、陸軍や海軍の要塞となっていき、1934年(昭和9年)には宣教師総引き上げとキリスト教排撃が始まり1945年の終戦まではキリスト教にとっては暗い試練の時代であった。

 

 奄美及び和光園の歴史

 和光園は、計画当時(1937年頃)から近くの集落輪内地区(有屋・仲勝・浦上・大熊)から設立反対運動がおこり、大熊集落が中心になった反対運動は日増しに激化した6, 7)。その後、反対運動は収拾され、1943 年(昭和18 年)2月11 日竣工式挙行(表1)。3月30 日勅令278号をもって官制公布。それによって5月27 日保田 耕園長他職員7名、家族21 名が着任した。保田園長は8月31日に応召出征し、松本当太郎医官が9月12 日に園長心得に発令された。保田園長は同年9月20日に中国大陸で戦死した。翌1944年3月18 日開園式挙行、入園患者は19 人であった。4月戦争激化のため内地出身職員引揚。1945 年(昭和20年)3月空襲激しく食糧事情逼迫し、患者離散。4月避難生活。8月15 日終戦を迎えた。
 1946 年(昭和21年)2月2日、いわゆる2・2宣言により奄美を含む島々は沖縄に本部をおく米軍政府下に統治され、臨時北部南西諸島の名称が付された。1950 年10 月には奄美群島政府、1952 年4月には琉球政府の管轄になり、約8年間、奄美は日本政府から、引き離され、1953 年(昭和28 年)12 月25 日に日本復帰がかなった8)。
 和光園の戦後は食糧難で、医療は米軍放出の医薬品などで細々と行われていた。1947 年(昭和22 年)2月10 日特別軍政第13 号発令と、2月14 日北部南西諸島軍政命令第5号発令が出されたが、ともにハンセン病患者を施設に強制隔離する取り締まり的な布告であった3, 8)。患者隔離政策は「旧日本の政策を継承したもので、占領政策から考えても当然のことであった。」と犀川一夫は述べている3)。この布告命令によって165 人が療養所に収容された。1947 年9月には本土各園(主として、菊池恵楓園と星塚敬愛園)から奄美出身の患者103 人が入所し9)、患者数は178 人(1947年度末)となった。しかし、療舎の増築、食糧確保は満足にできなかった。奄美救らい協会(1937年発足)や奄美大島連合青年団、奄美赤十字社などの呼びかけで、慰問品や食料品などの贈呈や援助があったものの、それらで、園の食糧事情や医療環境を改善させることは殆どできなかった。
 その中にあって、治療薬のプロミンとダイアゾンが1949 年(昭和24 年)1月にカトリック教会から寄贈され、1950 年1月には7人の軽快退園者が出た。1950 年2月からは結節性の患者(主にLL 型、BL 型の患者)全員にプロミン注射・ダイアゾン内服が行われた。12 月には治療棟完成し、プロミン注射・ダイアゾン内服・大風子油注射の治療、内科一般、外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科などの診療体制も整ってきた6)。また、重症者は重病室、付き添い看護は軽症患者が行い、ハンセン病療養所の形態を整えることができてきた。
 また、患者自治会(和光会)は1949年(昭和24 年)4月に結成され、園の運営などに積極的に関わっていくことになった。1952年度の年報では、1953 年3月末の入所者の出身地は300人中、沖縄県が10 人、奄美群島以外の日本が5人と、文字通り「奄美」の療養所であった。1953年の日本復帰までは、開園後ハンセン病の専門の医師が園長に就任しておらず(後述の大平園長は1952 年6月着任)、必ずしも、本土のハンセン病療養所のシステムが機能していなかったと考えられる。
 以上から、奄美和光園の歴史は戦前(1945 年以前)に始まったが、実際の運営は戦後、1949 年(昭和24 年)頃から軌道に乗り、医療も自治会も大きく前進することになるが、本土と同様のハンセン病医療を行うのは日本復帰以後になったと考えられる。それまでは物資も乏しいなかで、生活や医療は貧弱で、隔離や管理が過酷という状況が続いたと考えられる10)。

表1 奄美和光園の歴史と各施設の人員


*入所者数は各年度末の数(文献8)

 

和光園と保育(カトリックが関与する1951 年前後まで)

 1945 年に終戦を迎えたが、奄美は極貧で、それは和光園でも同様であった。そのため、園へ入所するにあたって、子供を同伴することもあり、1952 年の年報では、「奄美和光園保育所の概況」として、「1949 年8月、日本々土からの引揚者収容に伴い保育児の収容も行はれ、建物(23 坪)も建設された。」6)。最初(1949 年)の児童数は7人、保母が2人、1953 年3月末の児童数は22 人、保母は3人となっている(表1、2)。収容される児童は「父親か、母親か又は両親共に当園に収容されていて身寄人の無い者か或いは家庭経済の困窮している者に限られ」、さらに、「園内で出産した子女は分娩後直ちに保育所に収容し、罹病の恐れを防止す可く計画しているのであるが凡ゆる方面から其の計画が実施出来得ない事は残念である。」と記載されている6)。
 文献11 の22 ページには、星塚敬愛園で未感染児童からハンセン病が発病し、他園に入所させた例が紹介されており、出産後直ちに親から離すことは、当時多くの医師や関係者の考えが反映していると推察される。
 なお、文献12 の192 ページには、未感染保育事業について、「この事業はすべて国の手にゆだねられて各国立療養所の費用で運営することとなった。戦後には同様の施設が宮古南静園(昭和22 年)、奄美和光園(昭和23 年)、駿河療養所(昭和30 年)と整備され、全国で全生園と光明園を除く各施設に養護施設が完成した。」とあり、和光園保育所は1948 年に整備が行われ、1949 年6, 13) に運用が始まった。
 外部の乳児園が整備されるまでは、和光園内で出産された赤ん坊についても一定期間母親のもとで保育された後に、和光園保育所に移された13, 14)。文献14 に、「1947 年頃から、園内で生まれた子供は2〜3才になると、適当に園内の保育所に移されていました。」とあるが、これは1949 年の誤りであろう。保育所は1976 年4月に閉鎖されたが(文献15 には1973 年に閉鎖となっているが、1976 年が正しい)、57 人の子供たちが巣立っていった7)。
 ここで、保育についてみると、療養所の中で自主的に行っている場合が多く、保育所や小学校なども法的根拠のない形が多かった。これはハンセン病療養所が特別で、法律のもとに閉鎖された世界を作り、ハンセン病に絡んだ問題を特別視し、ノーマライゼーション(一般化)の考えが長く欠如していたためと受け取れる表現がある3, 12)。
 米軍統治下時代(1946 ―1953 年)、園内での妊娠・出産についての公文書は調査した限りにおいてはなかった。この期間は、患者の強制隔離と、園からの逃走防止、さらに施設の充実に重点が置かれていた3, 8)。なお当時の感染についての認識は、日本と米国でほぼ同じ認識であった。すなわち、主な感染ルートは上気道粘膜からの感染で16)、接触感染も否定されていなかった。また、大人には感染・発症しない、子供には感染・発症することがある、との認識で、大人が患者と接触することは容認され、子供と患者との接触は禁止されていた17-19)。もし、患者が出産した場合は、すぐに親とは分離保育する、との認識があったと。

 

 

和光園におけるワゼクトミー(vasectomy)

 1952 年の当該施設の年報から6)、「奄美和光園保育所」は患者が同伴してきたハンセン病に罹患していない子供の保育所であるものの、園内での出産児についても受け入れの対応が計画されたが、「凡ゆる方面から其の計画が実施出来得ない事」があったと記載されている。年報が書かれたのは1953 年(米軍統治下)であるが、本土で1948 年に施行された優生保護法で、「本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの」と記載され、園内で「妊娠・出産」が不可能になったことが想像される。このことは30周年誌に松原が、「ハ氏病患者は結婚は認める然しそれには断種手術を受けることが前提とされる。若し妊娠しても本人の意志の如何にかかわらず胎児は陽の目を見ることなく消されなければならない。優生保護法によりこのことは何の抵抗もなく行われていた。現在もなお和光園以外の療養所ではその通り実施されている。」と記載している20)。松原はこの文章のあとに、パトリック神父について記載しているが(後述)、優生保護法が和光園で適用、実施され、ワゼクトミーや堕胎が行われていたかについては言及していない。なお、2005 年に公表された「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」の別冊「胎児等標本調査報告」には2001 年に病理標本は火葬されたため、病理標本の検索からは堕胎などが実際に実施されていたかは判明しない、と記載されている21)。
 和光園でのワゼクトミーについては、1954 年7月7日付の「夫婦者の内則」に記載がある(表3)8, 22, 23)。この内則はパトリック神父や自治会、子供の親、施設(当時の大平園長、松原事務長など)などが話し合って、松原が文章を作成し、「園長」名で明文化されたものである。その中で、夫婦部屋の入居の基準に「1953 年9月までに受胎調節手術をしたものは第一の優先権がある。」としてあり、受胎調節手術はワゼクトミーを指すと考えられる。さらに、「今日現在調節手術をして猶一部屋一夫婦の部屋を利用出来ないで大部屋に雑居をしている人達は総て1952 年10 月以前に手術を済ましたものであり、子供の問題、手術の問題、夫婦部屋の問題に就き方針の確定を見たのは1952 年の10 月であり特にカトリック教会との話の決定は翌1953年に持越してである。」と記載してある。大平が和光園に着任したのは1952 年6月16 日で、内規から判断すると1952 年10 月までにはワゼクトミー(受胎調節手術)は実施されていた。なお、ワゼクトミーが和光園以外の星塚敬愛園などの他の園で実施済みの可能性は否定できない。
 「幼きイエズス修道会」の130 年誌には、「1948年優生保護法の名で断種・中絶が公認されてから数年後、奄美大島にもそれを奨励する風潮が起こり、カトリック信者の反対を引き起こした。」とあり24)、当時和光園に宣教に来ていた松原やカトリック信者の患者などが反対した可能性がある。
 内則には、「出生するであろう子供を分娩直後に園外に引取る誓約があるか、或いは之をカトリック教会に分娩直後に委託出来るか、調節をするか、」とあり、大平の園長時代にも受胎調節手術を指すワゼクトミーが実施された可能性がある。大平は一度、カトリック信者の女性に頼まれ、中絶手術をしたことを記している22)。ただ、大平は、「中絶の話もカトリック以外の園生からは随分出ましたが、私は中絶は嫌ですので原則としてしない方向を求めましたので、避妊か産むかの二者択一になってしまったのでした。」14) と述べ、法律に則って中絶手術をしたことはほとんどなかったと考えられる。さらに、1968 年まで松原が事務長で在職していたことと、大西が1956 年から1969 年まで園長で在職していたことから、妊娠中絶は実施されなかったと考えられる。
 以上をまとめると、和光園ではワゼクトミーは行われていた可能性がある。しかし、正常妊娠の場合での妊娠中絶は実施しなかったと推測される。
 なお、記録にはないが、妊娠が判明すると、妊婦は一時帰省し、園外で出産後に子供を連れて帰園することもあった。さらに、妊娠・出産のために他のハンセン病療養所から和光園に転園する人もいたことは、文献11 の77 ページに記載があり、3人の子供を授かった母親が紹介されている。この場合、子供たちを和光園に預け、母親は元の療養所に戻る場合もあった。
 今回、子供の数などをまとめるにあたって、多数の文献を渉猟したが、文献によって数値が異なることがあり、それらは基礎となる基準が異なる場合もあった。また、年と年度とが混在している場合もあった。そのため、原則として、該当年に和光園で産まれた子供は、他園から出産のためにきた患者の子供も含めた。また天使園や児童施設などでは途中入所する場合もあるが、原則は和光園から入所、天使園から入所した子供たちを記載した。

 

 

世界のハンセン病患者と妊娠・出産に対する考え

 中世、ヨーロッパに蔓延したハンセン病に対し、ローマ教会は種々の規定を定め、国家は立法などにより規制をした。その中には、結婚の禁止、家族との分離、離婚の許可なども含まれていた3)。19 世紀末頃には、女性患者の妊娠・分娩が発病を促進したり、増悪の原因になるため、結婚を禁止することが多いという認識があり3)、Cochrane や田尻も妊娠や分娩が発病誘発や症状増悪などを起こすことを述べている25, 26)。近年では、ハンセン病患者間に生まれた子供がハンセン病になる率(発病率)は10%から39%程度と考えられていた27, 28)。また、生直後に患者である母親から子供を分離した場合には発病率は0%ないしそれに近いデータがあった28)。
 ハンセン病を理由に優生手術を認める国は皆無であると内田は記載している29)。しかし、ハワイでは断種手術が行われていた(後述)17)。
 1931 年の国際連盟保健機構による「らいの公衆衛生の原理」には、新生児の分離、患者の結婚の禁止などが記載されている16, 27)。
 

アメリカ合衆国でのハンセン病患者の妊娠・出産の考え方

 奄美和光園でのカトリックの影響が大きいこと、また米国統治が1953 年まで続いたことから、米国の状況について検討した。
 米国本土におけるハンセン病療養所(カービル)での妊娠・出産については、男女分離、結婚禁止が決められており、女性は妊娠すると病状が悪化し、患者と同居する子供の約1割がハンセン病を発症すると推計されていた19)。しかし、妊娠中絶やワゼクトミーの記載はなく、出生した子供については、すぐに患者から分離する方式がとられていたと考えられる。このことは、日本においても私立のキリスト教系のハンセン病療養所では妊娠中絶やワゼクトミーの記載がほとんどないことと一致する。以上のことは、奄美に来島した神父たちが共通に持っていた認識と考えられる。 
 なお、ハワイでは1930 年代から1940 年代の前半まで断種手術が行われていた17)。法律による断種ではないが、モロカイ島のカラウパパのハンセン病の施設からホノルルに行く場合などには、断種することが条件としてあった。また、新生児は誕生後すぐに療養所から移された。断種手術が無くなったのが1943 年頃で、これはカービルでのプロミンの有効性が判明した頃と一致する。
 米国本土及びハワイの状況から、第二次世界大戦後には、ハンセン病はプロミンで治りうる病気(まだ耐性菌の問題はなかった)で、男女分離隔離の必要は無く、妊娠した場合は、出産後直ちに分離保育し、小児は療養所への訪問を禁止する、などの認識があった。そして1947 年からは外来治療も可能になり、1952 年には婚姻も許可された30)。しかし、強制入所が法律から削除されたのは1985年であった30)。

(1)  (2) (3)                                           →次ページ

 

 

inserted by FC2 system