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和光園とカトリック、パトリック・フィン神父
(Fr. Patrick Finn、1920-1962)  

 1949 年(昭和24 年)には松原若安が和光園で福音宣教を始めた。1950 年、和光園教会が誕生し、アーネスト神父が洗礼を授けた。1951 年8月、カトリック神父パトリック・フィン(トラピスト修道会) が和光園担当司祭になった5)。
 パトリック神父はアイルランドから米国へ移住する船中で誕生し、後年、本人自身は国境も人種ももたない、どの人とも兄弟であると言うのが口癖になっていた31-35)。ハンセン病患者への奉仕を生涯の使命とし、最も恵まれないハンセン病患者のいる和光園へ来たが、彼の存在は、和光園での子供の誕生に大きな足跡を残した。彼は伝道はもとより、米国の親戚・友人などに食糧や日用雑貨、医薬品などの援助を仰ぎ、それらは園の運営の大きな支えとなっていた。さらに和光園とは小さな川で隣接した場所に住居(司祭館、1953 年4月)を建てて5)、園生(奄美和光園では入所者を園生といっている)と何の隔てもおかず行き来した。
 1952 年の年報には入所者300 名のうち信者は 158 人、それらのうち70 人(入所者の23.3%)がカトリック信者と記載されており6)、パトリッ ク神父の献身的布教や松原の宣教などが大きいことが分かる。
 パトリック神父は1954 年1月まで和光園教会で司祭をしていた。彼は同年1 月に奄美離任5)、6月に離島した35)。その間の約3年間、パトリック神父は和光園の準職員のように園内でも働き、園生に物心の支えになり、教会の教えを説いた。
 1949 年からプロミンが導入され、1950 年に軽快退所者もおり36)、その後も退所し社会復帰する人数が増え、ハンセン病もこの「治る」という実感が入所者や職員に伝わったのではないか。1943 年に創設された「若い」療養所では、過去の「不治」のハンセン病のイメージが少なかったことも影響していると考えられる。さらに、ハンセン病は大人には感染・発症しないことをパトリック神父は知っていたとのことである。すでに、出生直後に患者である親から分離すれば子供が発症することはほとんどないことが言われて、和光園では事実上夫婦生活が営まれており、さらに、カトリックであるパトリック神父は堕胎に反対であった。なお、1953 年3月末の入所者300 人のうち、20 歳から49 歳までの入所者は62%を占めており、夫婦は59 組(夫婦舎52 組、夫婦不自由舎7組)いた6)。
 パトリック神父の妊娠・出産そして子供たちに対する考えを事務長の松原は30 周年誌に前述の優生保護法の件に続いて以下のように記している20)。「パ神父は和光園でこの事を知るや敢然としてこれの廃止を訴えた。人間が結婚すればそこに子供が出来ることは当然のことである。それこそ神の摂理である。結婚を許しながら出産を認めないということは神の摂理に反する。日本は憲法に基本的人権の尊重を明らかにしている。然しながらハ氏病の患者の妊娠出産を認めないとは明らかな人権無視であり差別である。彼は鋭くこの矛盾を衝いた。そして患者連に神の摂理を説いて廻った。我が国のハ氏病対策でこの間題は最も困難とされ誰も言わく言い難しで触れたがらない問題に真正面から取り組んだ。これこそ彼が聖職者として当然の責任と人道的人類愛に燃えた行為であった。ハ氏病の患者のワゼクトミーの可否をローマ法皇庁の神学院で論争される以前のことであった。」。松原がこの文章を書いたのはパトリック神父が去って約20 年後のことのため、多少は松原の考えも含まれていると思われる。しかし、カトリックのパトリック神父と松原は心通じ合うものがあったのであろう。松原の次男は、パトリック神父に対する鮮烈な記憶に、「ジョアン(=松原事務長)、あなたは厚生省の役人(=事務長)である前に、人間である。子どもは神の子です!!」、がある。新しい時代になり、優生保護法や過去のハンセン病のワゼクトミーの歴史にとらわれずに、人間として当然のことを当然に発言・実行したパトリック神父がいたことで、新しい命は守られた。
 しかし、生まれた子供を誰がどこで育てるかは、別の問題として残る。
 パトリック神父は交通事故を起こし、それがきっかけになり、1954 年1月に和光園を離れた。その他に、日本復帰後、厚生省の壁も厚く、自分の思い通りにならなかったことも、離任の一つと考えられる22)。彼の滞在は約3年間と短期間であったが、カトリック信者を中心とした堕胎問題等では、園内での影響力は大きかった。神父の働きは、次のゼローム神父に引き継がれていく。


和光園事務長 松原若安
(まつばらじょあん、1908-1990)

 松原は、奄美が日本復帰する以前の1952 年(昭和27 年)4月に和光園事務長(当時44 歳)に就任し、1968 年(昭和43 年)4月までの16 年間在職していた20, 37)。しかし、就任3年程前の1949 年7月と1950 年4月には和光園での講演会に訪れ6)、また1949 年12 月のクリスマスの夜に和光園への初めての伝道を試み5)、以後カトリックの伝道師として、週に1回、和光園に通って、カトリックの布教に関与していた。すなわち、パトリック神父の赴任以前から園生にカトリックの伝道をしており、その松原が事務長に就任した。松原は奄美の出身で、歴代の園長(第4 代喜入直治、第5代大平 馨、第6代馬場省二、第7代大西基四夫)と共に園の運営に辣腕をふるった。
 松原が事務長に就任した25 日後の6月に本土から大平 馨が27 歳の若さで園長に着任した。戦後の園長は他の職との併任であったが、大平は和光園の専任の園長として本土から派遣された。彼は若輩で、奄美を知っていないことから、園の運営は松原が主体性を持って行った13)。
 和光園での優生保護法、ワゼクトミー、堕胎、妊娠、出産について松原がどのような考えを持っていたかは、1973 年(昭和48 年)頃に松原本人が和光園の「創立30 周年誌」20) に記載した文章からうかがうことができる。
 「『子供を産むなら養育の義務がある。育てることの出来ない者は子供を産む資格がない』『産まれた子が発病したらどうなるんだ。それこそ子供の不幸を親がつくってやっているんじゃないか』厚生省の某課長でさえもこのことで鋭く私に追求した。然し、義務とか資格とか責任とかは一体誰が誰に言い得ることだろう。真実の人間の存在の尊厳性から考えるなら、もっとも深いところに考えを致すべきではないだろうか。今までにこの子供達からの発病はない。発病を危慎していた人々には何れ和光園のその筋の方々の学会発表もあることと信ずる。患者もその子も総てを神の子として私の兄弟、姉妹として彼等を他の人々と区別することなく認め、実行したパトリック神父こそ真のハ氏病の理解者ではないだろうか。」
 1950 年頃から、和光園でもプロミンで病気が軽快し、出生直後に患者の親から離すことで子への感染・発症は防げることなどが一般的な知識であった。その上で、結婚を許すことは出産を認めることで、カトリックでは中絶は教義に反している。松原が、らい予防法や優生保護法の規定をどう考えていたのかは不明である。松原の考えはカトリックの考え、パトリック神父の考えと同じであり、人間としての良心に従った行動をしたのであろう。和光園では結婚すると、その届けを役所に提出し、出産した場合にも同様であった。
 施設の事務長の悩みは、「カトリック教徒として人道的立場と事務長として行政的立場のギャップに悩んだ松原氏は幾度となく琉球政府との交渉を重ね、園内保育所で育てることを黙認させたが日本復帰になって以後は園内誕生の子を保育所に引き取ることを認めない厚生省の方針に従い、カトリック教会に保育園の設営を訴えそれが開設されるまでは自宅において子供達を保育した。」という井原憲一の文章に凝集されている38)。
 松原が実行したことは、園内で生まれた子供を、出生直後に親から引き離し、園ないし施設、あるいは彼自身が保育することで、子供をハンセン病の感染・発症から防ぎ、親子が将来幸せになることを祈念していたと考えられる(表4)。


 1952 年に事務長に就任し、松原、大平園長、園生、親たちとの話し合いで、1953 年の初めごろに、出生直後に和光園で預ることにし、1歳になったら園の保育所で養育することに合意が成立したが、この合意には「一重に松原さんと森さん(筆者注:事務員)に対する園生の信頼」が大きかった、と大平が記載している13)。1953 年春頃から大平園長のもと、看護師が赤ん坊3人を保育していた13, 23)。しかしさらに生まれてくる子供の保育は和光園では困難で、カトリックなどとの話し合いが行われ、1954 年7月7日の日付で、「夫婦舎の内則」ができた。
 しかし問題は生まれた赤ん坊の保育である。療養所では母親がハンセン病であることから、出生直後に母親から分離することが必要であり、看護婦が3人の赤ん坊を保育したが、それでは不十分で、教会が新生児をあずかることになった(1954年4月)。その保育は、松原の夫人(ケサ)や娘(長女律子、次女洋子、三女敬子)が里親として保育を行うことで、母親の安心を取り付けたのであろう。母乳の代わりの人工乳はゼローム神父の努力や、和光園の薬剤費から捻出22) して確保したと考えられる。同時にゼローム神父は新生児をあずかる乳児園を創設した。なお、大西が1954 年1月に松原の自宅に3人の幼児がいたと記載しているが11)、これは1954 年7月と考えられる。大西は1954 年には2月と7月に和光園に来ている7)。
 「こどもの家」(後述)の設立後も、松原が退職するまでは、園内で助産婦などによって出生した新生児を松原家で湯浴みさせ、数日後に「こどもの家」、「天使園」に連れて行った14)。

 

ゼローム ルカゼウスキー神父
 (Jerome Lukaszewski、1922-2003)

 1952 年(昭和27 年)11 月11 日にゼローム神父とルカ・ディジャク神父(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)は来日し、11 月27 日には両神父が奄美来島、そしてカプチン会より奄美宣教の任務を引き継いだ39)。ゼローム神父は、和光園の子供たちについても、パトリック神父の方針を受け継いだ。
 1953 年12 月25 日、奄美大島は日本に復帰した。ゼローム神父は1954 年7月に奄美諸島宣教地区総代理に就任。奄美が日本復帰後、厚生省は、園内誕生の子を園内保育所に引取ることに強い難色を示した22)。
 パトリック神父は和光園の敷地内、あるいは近在の土地を買収して保育施設を運営することを考えていたようであるが、ゼローム神父は1949 年(昭和24 年)に診療所を開設した西仲勝の地(当時は生活が貧しかった)を候補地にした。そして、ゼローム神父は西仲勝にある診療所に隣接して、平屋のハンセン病未感染乳児収容所「こどもの家」を開設した(表5)。松原の娘たちやボランティアの女子青年の協力により奄美和光園より嬰児を引き取り保育を始めた24, 39, 40)。和光園の園生の子供はすべて「こどもの家」で保育することになり、看護婦・松原家での保育はなくなった。

 平は教会が「天使園」(正式には「こどもの家」である)を開設した理由として、「一つは人権(親権)の問題です。人間は男女が愛しあい、結婚して子供を生み、愛を注いで育てていくように神様に望まれています。これは自然の道ですし、人間として当然の権利でしょう。もう一つは堕胎です。胎児としたら、最も愛し信頼している母親、全てに頼りきっている母親から殺されるのですから、どんなにか悲しいことでしょう。弱い者ほど労ってあげるのが人間だと思います。」と記載し、これらはゼローム神父やシスター井出から伺ったこととしている41)。なお、平は、「天使園の創設には当時の市長、国会県会の議員さんがとても力になって下さいました。」と記載しているが41)、他の文献にはこの記載は無い。しかし、星塚敬愛園の大西らが水面下で工作していた可能性がある。
 ゼローム神父はこの事業に修道女の協力を求めた。それに応えて、幼きイエズス修道会は1955年9月、「こどもの家」の事業を引き継ぎ、「天使園」としてシスター中島シズ子を園長として、計5人のシスターが保育を行った24)。シスター達が活動始めた土地(西仲勝)は、当時、名瀬から車で約30 分の所にあり、朝戸峠を越え、山道を下り、谷間の集落にて、茅葺やトタン屋根の民家がちらほら見えてくる寒村であった。公共の施設は、小学校・派出所・農協・その隣の教会とカトリック診療所だけで、乗客と商品を運ぶバスが1日4往復し、電気、水道は未だなかった24)。

 

大平 馨と未感染児童

 大平は、1952 年6月29 日に27 歳の若さで長島愛生園から園長として赴任した。その約3か月前の4月1日には松原若安が事務長に、森 正治らが事務員として採用された。
 大平は「官舎保育の頃」で次のように書いている13)。重要なので、長くなるが引用する。「1952年頃には和光園にも保育所(開設は1949 年)というのが職員宿舎の奥の高い所にあり、園生の人達の子供さんをあずかっていました。親や養育していた人がハンセン病になり、和光園に入らなければならなくなったときに、あとをみてくれる人のいなくなる子供をあずかっている所で、保母さんが3人と子供が22 人おり、うち9人は大熊の朝日小・中学校に通っていました。子供達が心の中でどう受け止めていたかは分かりませんが、校長先生が良かったためか、私達には学校で“いじめ”や “差別”があったとは思われませんでした。(中略)このほかに園生の間で園内で生まれた小学校前の子供が10 人前後位だったか、園内の舎で両親と一緒に生活していましたし、妊娠中の人もいました。当時の米国民政府の指導としては、13 才以上の人は園内への出入りが自由だが、それ以下の子供は感染発病の危険があるから、園内に出入りさてはいけないというものでした。(中略)名瀬市のいわゆる軍政府からも、衛生関係のアメリカ人が時々見回りに来てました。園内の子供を見ては、『園内に子供をおいてはいけない。これは誰の責任か』とよくいわれましたが、そうはいわれてもなかなか手がまわらなくてといって私は逃げていました。(中略)その一方では、園内で産まれた子供を保育所にあずけることについての、親達や園生の自治会との話し合いは難航していました。親にしてみれば人情としてわが子を自分の手元に置きたいし、他の園生も、何と言っても子供は可愛いし数少なく珍しいので、よってたかって皆で大事に面倒みてました。しかし一番の原因は、奄美群島政府時代からのいろいろの経緯から、未だ職員が園生に十分には信用されていなかったのです。(中略)喜入直冶先生ご就任から僅か4カ月後にバトンタッチをうけた私は本土から来たばかりで若くて得体が知れず、保母さんの力量は未知数とあっては、園生にせばとても安心して子供を保育所にあずけられる心境ではなかったと思います。『大丈夫か、ちゃんと育てられるのか』と随分念を押されましたが、1953 年の始め頃だったですか、園で預かることに合意が成立しました。これは一重に松原さんと森さんに対する園生の信頼からでして、園生からみれば私や現場の保母さんなどは、未だ試験的採用期間中みたいなものでした。その方法は、満1歳までは看護婦さんが哺育し、それ以上の子供は保育所でみるという二本立てのものでした。看護婦さんの方の哺育は同時には3人までとし、年長児から順番に毎月1人位づつの割りで親元から園の側に移していくというもので、看護婦さんの方と保育所への受入れとは同時に1953 年の春頃からか開始されました13)。」
 1952 年の大平の赴任時には、園内保育所(患者が連れてきた子供たち)と42, 43)、親自らの養育、の2本立てであった。大平そして松原事務長らの懸念は、子供がハンセン病に感染・発病する心配であったと考えられる。断種や中絶には松原やパトリック神父、ゼローム神父、カトリックが反対するので、子どもの問題を解決することが和光園としての当面の課題であった。その解決策として、出生直後に親から離して1歳まで看護婦が保育、1歳以上は園内保育所という方針を打ち出した。この方針は松原や森が園生、自治会、親などと話し合い、1953 年の初め頃に合意した。
 1953 年の春から看護婦が新生児を保育するが、場所は大平の園長官舎で、看護婦3人が3人の新生児の保育をはじめた。赤ちゃんを3交代でみると、看護婦の数は3名ないし4名が必要である。のちに看護婦と新生児を1対1に固定する方法にした。一方、園内保育所も1953 年はじめには22人と、手狭になったが、1953 年3月にデビス奄美地区民政府長官から建物一棟(24 坪)の贈呈を受け、保育所に充当した6)。
 園生には比較的若い夫婦がおり、その後も園内で出産が続いた。1953 年(昭和28 年)4月、パトリック神父は和光園とは小川で隔てられた教会の隣に司祭館を建て移り住んで専任司祭となった。園生に神の教えを説き、園内では、あたかも職員のように働いていた。園として保育できる新生児は3名までと決めてあったため、その後に園内で生まれた子供のうち3名、すなわち、1954 年4月生まれの子、さらに2人の計3人、は司祭館で松原の夫人や娘に養育された。同年、司祭館は台風水害で使用できなくなり、3人の子供は松原宅で養育することになった40)。
 1954 年7 月には、「夫婦舎の内則」8) ができたが、それ以前に、「夫婦舎の内則」の内容に沿って施設とカトリック間で文書を交わしたガリ版刷りの資料が残っている。
 カトリック側では、パトリック神父が1954 年1月に奄美から離任した。ゼローム神父は1953年11 月に名瀬、聖心、大熊、浦上、芦花部の担当になり、1954 年2月にはそれらの地区を巡回している。その後7月には奄美宣教の総代理、8月には地区長、10 月には総責任者に就いている5)。これらの時間的なことから、和光園とカトリックの間にはパトリック神父とゼローム神父の両人がかかわったと考えられる。
 さらに、「こどもの家」が1954 年11 月に創設されたことなどから、新生児の保育先に目途がたち、実際、看護婦の保育と松原家での保育は11 月で終わり、こどもの家に保育が移った。
 大平の出産に関する考えは「要するに園内には幾ら出産してもよいが、母子の健康と養育には責任をもてないということと、その子供たちを園内に野放しにしておくのは困るし、園にも全員受入れの能力はないから、カトリック教会なり、適当な施設なり、故郷の身内なり、誰か養育の引き受け人をはっきりその都度決めて下さいと取り決めしたことは確かでして、それは口頭だったと思うのですが、文書化されていたのかなと思います。」と述べ22)、「夫婦舎の内則」のことを意味しており、厚生省施設の管理者である大平の現実を直視した対応がうかがえる。
 さらに、大平は「夫婦舎の内則は29 年7月7日なっていますが。29 年の始め頃から今いる子供は別として、新しく生まれてくる子供は園では面倒みきれないという線を私は打ち出した訳でした。ですから、Aさんの子供さんが4月15 日に生れ、次いであなた、Cさんの子供さんと3人が松原若安さん、奥さんのユリ姉さん(著者注:大平の誤認で、ユリはケサ=奥さんが正しい)や洋子さん、慶子さん(著者注:大平の誤認で慶子は敬子=三女。律子=長女も育児を行っていた)、シスター達に司祭館(物置同然?)で育てられ、ついで松原若安さんの宿舎や浦上のお宅で育てられたわけです。そして29 年11 月にゼロム神父さんの天使園が西仲勝にできたわけです。Aさん以前の子供は誕生日までは看護婦さんがみましたから、29 年の後半は松原家か天使園と、園と2本建の時期があったと思います。(中略)中絶の話もカトリック以外の園生からは随分出ましたが、私は中絶は嫌ですので原則としてしない方向を求めましたので、避妊か産むかの二者択一になってしまったのでした。」と、大平は書いている14)。管理者として、現実的な対応策がカトリックの協力で軌道に乗ることになっていった。
 大平とパトリック神父の妊娠中絶に関する齟齬を、大平は記載している22)。大平はカトリック信者の女性から中絶を依頼され、本人の了解とともに、パトリック神父に相談したかを本人に聞いている。本人から神父へ話すとのことで、大平は実施した。翌日、神父は、事前に医師が神父に相談するのが文化国家だということで、2人の間に溝が入り、松原が間に入って大分心労したとのことである。
 新生児の問題は解決したが、彼らが大きくなってからの受け皿については解決していない。
 大平は琉球政府の管轄から、日本政府に移った激動の時に園長として勤務していたが、日本政府は画一的なハンセン病療養所政策を和光園にも強要してきたようである。「中央集権的画一なものを押しつけるのはよくないことだと思います。奄美の人は、奄美の人の魂を忘れないで下さい。問題は1953 年12 月25 日の日本復帰後でして、日本の官僚には本当にがっくりきてしまい、私はもうやる気をなくしてしまい全生園に逃げてきてしまいました。」20)。1955 年3月1日に、大平は全生園に異動になった。その間、大平は松原、パトリック神父、ゼローム神父らと強力なチームワークを組んで、らい予防法と優生保護法の下でありながら、和光園の子供たちを育てていった。

 

馬場省二園長(1910-1996)

 1955 年3月から1957 年8月までの2年5か月間園長として勤務した。
 馬場園長は院内出産について敬愛園長の大西に愚痴をこぼしていた11)。馬場の赴任時は、プロミン、DDS の時代で、治癒ないし軽快する時代になってきており、生まれた子供を保育する体制ができていた(患者が連れてきた子供は園内保育所、生まれた子は天使園)。松原の子供たちへの対応に馬場は不満を示すものの、園の運営は松原がまとめ、敬愛園の大西園長が精神的・人的に多大な援助をしており、現実対応になっていた11)。馬場は子供好きで、食事は園内の保育所で摂り、子供たちと芝居を演じたりキャンプなどをしたりして楽しんでいた20)。馬場は、大平、松原、ゼローム神父らが作った保育の体制を継承した。

 

大西基四夫園長(1915 〜)

 大西は和光園園長として、1957 年8 月から1969 年4月まで11 年7カ月間在籍した。大西は、敬愛園在職時に、子供を産みたいという若者に同情して、生まれたら故郷の実家に預けるという条件で出産させたことがあり、やがてその子供が成長して、親が退院出来ない障害を持っていても実に美しい情愛をみせてくれたという体験していた11)。一方、敬愛園では未感染児童を村の小学校に通わせていたが、小学校4年の子供が発症して療養所に入所させた例を知っていた8)。大西は敬愛園勤務時代に幾度か和光園に出張し、また、和光園の園長や事務長などは、東京への出張の折には、敬愛園に立ち寄っていた。このことから、園内出産児は出産後に親元から離し、きちんとした形で養育することを考えており、カトリックにも相談をしていた11)。大西は「まなざし その二」に、「奄美全体を対象にしたベビーホームを新設し、そこで引き受けてもらえるような方向で、カトリック教会に相談を持ちかけた。」と記載があり11)、パトリック神父、ゼローム神父、松原らと保育所の子供たちの将来や生まれてくる子供の保育について対策を考え、陰に陽に動いていた。
 大西が和光園長になってからの子供たちの養育に対する変化としては、1959 年(昭和34 年)5月に、和光園の子供以外にも入園できる「名瀬天使園」(児童福祉法認可)となり、定員は20 名となった44)。それ以前は、予算の都合で12 〜13 名の入園であった24, 40)。法の認可を受けることは経営面でのメリットがあったかもしれないが、それ以上に和光園出身であることが特別視されない環境を作ることになった。
 こどもの家(天使園)は2歳までの子供を預かり、3歳になると別の施設に移ることになっていた。1954 年に松原家にいた3人の子供は、その後11 月にはこどもの家、そして1958 年には谷山地区にある愛の聖母院に移って保育された40)。年齢的には4歳になっているはずで、当時の天使園の定員は20 名で、定員が超過すると愛の聖母院に移ったと考えられる40)。
 1959 年11 月には児童福祉施設「白百合の寮」が設立され、和光園で生まれた子供は、この寮に移り、18 歳の学業終了までの養育が保証されることとなった(表6)。
 なお、後に総理大臣になる細川護煕(当時、朝日新聞記者)は1965 年の新聞に、「夏と冬、年に2回の面会の日、こどもたちは、自分の書いた絵やおみやげをどっさりかかえて療養所の両親のもとに向う。」、そして、講堂の上で子供たちが劇を披露し、観客席では親が見入るが、お互い抱きしめることができない情景を掲載している45)。事実白百合の寮の子供たちと親の面会は細川が記事にしたような対応であった。大西は、プロミン・DDS でらい菌が少なくなることを認識していたが、殺菌効果の高いリファンピシンが登場していないのでDDS 治療後の患者と小児が接触することに対する医学的データを持っていなかったと考えられる。小児において、どの程度の菌量で感染・発病するか不明な時点で、子供をらい菌に暴露させることに大西らは躊躇したと考えられる。1948 年優生保護法の名で断種・中絶が公認されたが、大西は「ハンセン病は遺伝でなく、患者の母胎から分娩と同時に引き離して養育すれば感染しない」という学説を述べ24)、その点からも乳幼児を親から離すことに神経を使っていたと考えられる。

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