ハンセン病患者から生まれた子供たち−奄美大島における妊娠・出産・保育・養育のシステムの軌跡−  追記/森山一隆

 

最 後 に!

 その後の調査で、国立ハンセン病資料館長 成田 稔先生から資料を頂き、奄美和光園の園内保育所児童数が判明した。その資料は1976年発刊のレプラ(現在の日本ハンセン病学会雑誌)45巻の55ページで、第22回日本癩学会西部地方会で発表された。題名は「奄美和光園入園患者の生んだ子供の追跡調査」で、奄美和光園の有薗秀夫医師と放射線技師の中村民郎が発表した。
 彼らは、昭和22年〜50年までの和光園における保育児童ならびに園内出産児を対象に、児童の出所とその推移、患者との接触状況、発病例等について調査した。結果は、
(1) 園外出生で和光園保育所に収容した者38名、患者の親より出生し和光園保育所に収容した者20名 外部の保育所に送った者48名。性別は男子62名、女子44名で、総計106名を調査対象にした。
(2) 和光園保育所の収容児童は、昭和23年の5名から急激に増え、昭和33年31名が最多で、その後は緩やかな下降線を辿り昭和50年は1名であった。
(3) 園内出生児の推移は昭和26年が最高の7名で昭和40年までは年平均3名の出生があったが、以後は1名〜2名となった。なお昭和29年までの園内出生児は和光園保育所に収容、それ以後の出生児はこどもの家(天使園)に送った。
(4) 出産直後両親から分離した53名からのハンセン病の発病はなかったが、分離しなかった子どもからは4名の発病があった。
(5) 発病の4名は何れも生後1〜2年間に濃厚な接触があり、且つ内外とも劣悪な環境にあり病弱であったことが要因と思われる。
(6) 発病者4名は男子2名、女子2名で、3名は園内出産で園内で患親と同居している24名中から発病した。他の1例は園外で出生し患親が育てた29名中からの発病した。発病年齢は4〜10歳、接触期間は1年4カ月から1年10カ月で、潜伏期間と考えられる保育所在所期間は2年10カ月から10年2カ月であった。感染源は結節型の母3名、他の1名は両親とも神斑型で、園内での濃厚接触が考えられる。子供の病型は非定型が3名、他の1名は神斑型であった。4名とも現在は社会復帰している。
(7) 106名中、昭和50年現在死亡が10名あるが、2名は園内保育所で、あとの8名は外部施設の子供達である。

 有薗秀夫医師 1919年鹿児島県川辺郡出身で、星塚敬愛園を経て昭和32年に和光園で医務課長、副園長、園長を歴任し、昭和63年に退官した。平成20年5月9日に奄美市名瀬で車にはねられ亡くなった。享年88歳。通夜と告別式には和光園入所者や医療関係者ら約300人が集まり、突然の別れを惜しんだ。有薗医師は「苦しむ人を助けんといかん」と退官するまで30年以上ハンセン病の医療に尽くした。画家田中一村の死亡診断書も書いたという。
 中村民郎さんは昭和27年から昭和61年まで放射線技師として和光園に勤務した。その間、島尾敏雄作家から文学を学び、和光園内に俳句会等作りながら園生に読み書きを教えた。詩人として、奄美の民謡を作り、島歌の大御所坪山豊氏と二人で、ワイド節他あやはぶらの歌を作り、今日でも奄美大島で歌い継がれている。
 私自身、4年前から和光園の子ども達のことに関心をもち、資料を収集したり、当事者に聞き取りなどを行い、平成20年(2008年)の第81回日本ハンセン病学会総会学術大会等で、一般演題「優生保護法下の未感染児童〜奄美大島における、ハンセン病患者に生まれた児童救済の実例〜」を熊本市民会館において発表した。さらに、日本ハンセン病学会雑誌にも論文を掲載した。今後もハンセン病の資料収集と共に、ハンセン病文庫の充実、啓発などに取り組んでいきたい。

(2009年12月8日奄美新聞 掲載)
 

                       

 
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